
大阪・関西万博が閉幕しました。
万博の規模や、各国の展示内容や、大屋根リングからの眺望等々、実際に会場を訪ねていたらどんなに感銘を受けただろうか、と想像します。
盛況に終えた万博の報道を眺めていると、ある番組がシグネチャーパビリオンを担当するとあるプロデューサーさんにスポットを当てておりました。その方は、会場の一角にDJブースを設け、フェスイベントさながらのダンスフロアを万博に誕生させています。飛ぶ鳥を落とす勢いの、難関試験に合格した実力派のその方が、イベント終了後には万博は「祝祭」だったと総括しているものですから、私は耳をそば立てることになりました。そして、一体感を得た、と彼は言います。重責を担ったご本人の仰る言葉には重みがあります。
万博は「成功」だったのかどうか、というよりも万博は「祝祭」だったのか?が、気になるところとなりました。
なぜここにフォーカスするかといえば、祝祭の祝うべき対象は人間の「自由」だと私には思えるからです。
例えば、収穫祭や五穀豊穣などの祝事でも、根底には自然と共に過ごす人間の自由を称えていたように思います。
一体感とは何だったのか。
結論からすると、「祝祭」は、万博オフィシャル見解ではありません。では、大阪万博の、開催意義はどのようなものでしょう。公式サイトの「基本計画」から確認することができます。
開催の意義
いのち輝く未来社会へ
(略)新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は世界に大きな影響を与えた。人々は日常の生活の中でいのちに向き合いながら、自らの行動に選択を求められている。
大阪・関西万博は、COVID-19を乗り越えた先の、新たな時代に向けた国家プロジェクトである。この時代に開催される万博として「いのち」という原点に立ち戻り、自らと他者のいのちを意識し、そして自然界の中で生かされる様々ないのちに向き合い、世界が持続する未来を模索する場となる。転換期ともなるこの時代において、万博という場で世界が一つとなることに意義があり、いのち輝く未来社会のありようを共有することは2025年以後の世界の新たな一歩となる。
「大阪・関西万博は、新たな時代に向けた国家プロジェクトである」
「「いのち」という原点に立ち戻り」
「自然界の中で生かされる様々ないのちに向き合い」
「未来を模索する場となる」
「いのち輝く未来社会のありようを共有する」
「新たな一歩」
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...私には、うまくまとめられません。
ところで、今回、万博を紹介するメディアや報道によれば、各国のパビリオンがどれも人気を博していると言います。中でも、万博に訪れた方々の一体感や高揚感に加え、実際の一般来場者数、2500万人超、黒字見込み280億円を賛美する報道が多いように見えます。
一方、私達の着目するのは「自由」です。この自由は、他者への配慮やそれ自身に想いを馳せる想像力であるように思います。(自由には不自由な時には気がつけない"想像力の自由"が含まれていると思います。身体の自由が確保されても、想像力の自由まで確保されないのはそのせいでしょう...云々)
この自由はメガネのようなもので、それがあれば良く見えるのに、無い時にはそれ自身の置き場所までわからなくなるものです。公式の開催意義や、報道から見る限り、「自由」についての輪郭は見えず、「いのちの輝きの祭典」が「ビックサイトの国際展示会場」のように見える違和感を自分に残すのでした。
思えば、行政の手厚い福利厚生、民間サービスの利便性の向上、社会全体の自動化のような、幸福感を確保する価値を我々は賛美してきた一方で、賛美されるべきものがあるとすれば、(おそらく)自由などと、賛美そのものを区別してこなかったのかもしれません。
肝心なのは、自由がそれ自身を見つける能力でもあることです。初めのきっかけがなければ、その先の自由も見えないもの、だと思うのです。
色々なメディアの報道を見ても、記録的なことや、現場の高揚感の話題が多く、もし万博が「いのち輝く未来社会」を標榜するのであれば、いのちの"自由"に関心が向かう切り口が寛容に思います。
なお、このブログは、現場で行けなかった惨敗者のぼやきであることをご承知おきください。
企画運営、関係者のみなさまお疲れ様でした。
...購入できる記念グッズは、これから探したいと思います。
ありがとう、ミャクミャクくん。
https://www.instagram.com/p/DO8e6NTAU5r/ 投稿よりご拝借
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