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第三の自由の社会的実装

 

原宿にて

 

「第三の自由」は社会実装できるのか?

このブログでいうところの第三の自由とは、すでに他の方が論じられている内容に重なると思うので、言葉を増やしてしまうのは申し訳ないのですが、狭義の自由です。他の言い方がまだ見つかりませんので暫定的にそのように表記しています。内容については、前回のブログへご移動くださり、ご確認ください。

早速、冒頭の疑問に応答すると、第三の自由は下記の分野において実装可能だと思います。

①芸術——産み出す側として

②報道——見出す側として

③歴史——記録する側として

④教育——誘う側として

⑤司法——判定する側として

⑥政治——確保する側として

 

この記述だけで論旨を理解される方は、まずおられないでしょうから文末で論旨を補っています。すでにそれぞれの分野で生じる課題についてこれまでも議論されてきました。強いてイノウエの独自性がどこにあるのかと言えば、ここで言う第三の自由が、課題解決を図るそれぞれの分野の打開策に重なると考える点です。

現在、わたくしことイノウエは人文学系の研究活動と、10代の頃から続けてきた写真活動を並行して行っております。そして、言語化できない漠然とした「自由」のイメージが常日頃から脳裏に纏わりついておりました。ここ最近になり、ようやく言語の輪郭が見えてきたように思います。写真は芸術の分野に関わりますが、その他の分野への架け橋となる「自由」を、フレームの中に収めることができるように思います。対象を根気よく観察することで、自分自身の痕跡を対象の側に見つけます。その痕跡は全く別の分野への架け橋となる、と感じるのです。漠然とでも感じとられる方がいたら幸いです。写真家名義は小沼慶太郎と申します。

そのような思いはさておき、前回のブログから引き続き論じている「第三の自由」が生かされる領域といえば、特に上述の業種ではないでしょうか。この視点に関連して、とりわけ文筆家のW・ベンヤミンのアジェ論と、哲学者H・アーレントの公的領域論には重要な示唆を与えられました。

アーレントの議論は、このブログでいうところの「第三の自由」が、私的領域で展開されるものとは対比的に論じられる公的領域で展開される自由に重なります。

さらにデンマークの哲学者キェルケゴールの哲学、「反復」は知識や認識の儚さと憂いの意義に直面させられます。なお、私個人の解釈を用いれば、「反復」と第三の自由は密接です。それは個人の体験と記憶に関与するもので、自己自身の獲得過程に見出せる自由です。解放の自由や利便性向上などの自由とは異なる「質の自由」です。

「質の自由」は、自己自身の内部に見出す自由です。それを一度身につけると、今までなかったものが見えてくる自由なので、再帰的自由でもあります。(関数の中にそれ自身を含めて定義する再帰関数に構造が似ていますので暫定的にそのように表記しています)

先日、「万博は成功だったのか?」に書きましたが、「自由」はメガネのようなもので、それがなければその居場所さえ見えない、と喩えを用いましたが、それはまさにここで言う「第三の自由」と同義です。パビリオンの展示物のどこかに、人間的なこの「自由」は見られたでしょうから、主要メディアの方々にも、その点に比重をかけて報じて頂けたら、イノウエには万博がより成功らしく見えたと思います。

人間性を質的自由の延長線上に見出す点に、報道の未来があると言うのがイノウエの立場です。

なお、巷で概ね話題となる「自由」は、抑圧的なものからの解放を意味するものであったり、欲しいものを取得できるか否かに関わるものであったりします。前者の自由が回復的自由であれば、後者の自由は拡張的自由と本ブログでは捉えています。いずれも自由の量が重視されるので、このブログでは、これらの自由を「量の自由」と呼称して「質の自由」と区別しております。

今回のブログに載せた「6つの業種」は、第三の「質的自由」の社会的実装の可能性を大きくする代表的な分野だと思います。この狭義の自由は、常に日常の光と影のうち、影の側に埋もれやすいものの、人間的な要素の連鎖をもたらし、さらに経済の潤滑油となり、よく言われるように文化財の保護基準を考察する場合にも効果を発揮するものだと思います。ですので、政治的課題にまで高められると思います。この課題は、複雑な社会を生きる工夫とも、芸術家の表現とも表裏一体です。

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各分野の補足:

①芸術——産み出す側として
芸術には、表現者によってさまざまな思いが作品の中に込められますが感覚的、商業的、娯楽的なものだけでなく、その人の天然自然の人間的成分の獲得過程を表現する詩的なものがあります。さまざまな芸術表現があるので概念を用いた区別はできないものの、成分表示ならある程度可能です。第三の自由=質的自由の表現となって現れる芸術は、本人が詩を意識していなくても、詩的です。非/言語の詩は分野の垣根を越えて鑑賞者自身の記憶に重なると思います。例えば「東(ひむがし)の野にかげろひのたつ見えて かえりみすればつき西渡る」という万葉集の一首(一部筆者訳)には、ただただ観察する本人を、東と西にはさまれた一つのシーンの中に投影します。ここには単なる一人の視点の風景描写を詠んでいるだけなのですが、人間の視点に対する絶大な信頼が歌に表れており、この歌を名歌にさせていると思います。

②報道——見出す側として
報道には、客観的数値や記録的事柄を素材とする場合もありますが、質的な自由に関与する場合には、その報道の視点は、一人一人の人間に着目されるものです。サンドイッチマンさんの『病院ラジオ』のようなバラエティ番組がありますが、ここまでの文脈を用いると、患者さんの葛藤やユーモアや人間的活動を題材とするこの番組は、患者さんの内面の人間性についての、「報道番組」という見方ができます。あるいは株式会社ゲンロンの東浩紀さんの活動は、たとえば、選挙特番の配信で、一般の方をスタジオに招いて議論を深めたりなど、自身の哲学である『訂正可能性の哲学』に根付いておりますし、その一連の活動は、第三の自由の積極的関与が見て取れます。報道機関として着目すべき何者でもない一般の人の心情を汲み上げているからです。

③歴史——記録する側として
歴史には、散々語られてきたように、勝者の陰に人間の尊厳が埋没されてきました。W・ベンヤミンの「歴史の屑拾い」はその埋もれた領域に着目するのですが、歴史だけでなく、芸術にも報道にも、人間性の痕跡に着目することに関して、類比的な展開ができるものではないでしょうか。この文脈でいうところの質的自由に光を当てようとする歴史の叙述のあり方が、ベンヤミンの主要な論旨に重なる、という仮説が自分にはあります。

④教育——誘う側として
教育には、評価と指導が必要と言われます。第三の自由に関する眼差しが教育に携わるとすれば、量的自由と質的自由には自覚的になることができます。概ね生活の中で一体となっている自由に含まれる量と質の性格の違いを明瞭することで、人間的素養に意識を向かわせる面白さに着目できます。

⑤司法——判定する側として
司法には、刑法・民法とありますが、私法・公法の区別もあります。自然法に則り、既存の基準に照らし合わせずともあるべき責任の所在を明確にできる場合は私法に成熟している場合です。覇権国家の首長が自らを法とみなす場合は往々にして過大評価のそれにあたります。例外状態に直面し、法の不全に晒されても、それまで存在しなかった新たな法的基準を設け、明文化し、社会的に共有する必要があります。この共有プロセスが、公法の役割です。質的自由は、裁判官と当事者の中で実態に照らし合わせる態度や観察に基づく、特に量的判定や民法的審理に働く自由でもあります。

⑥政治——確保する側として
政治には、政治家の役割として、自由の確保される公的領域の構想をした哲学者がハンナ・アーレントです。すでに著作内で丹念に語られる政治的課題ですが、言論空間に確保されるアーレント的な自由は、この文脈でいう質的自由と概ね同義のもののようです。

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他者のこしらえた概念を前置きなく軽々に用いているので、言ってることもやってることも「よくわからん」と思われた方は、間違ってはおられないと思います。
また今回の内容を論文として提出するとすれざ、さらに先行研究を踏まえなければなりませんし、何より分野を横断することで各分野でのすでに構築された客観的参照元となる定説を、あわよくば修正する方向に形式を整えなければなりません。アカデミックな論文とは異なる、役割がこのブログにもありますから、拙い表現ながらこの『おーい新聞記事ブログ』にも書き残したいと思います。

最後まで、お付き合いくださりありがとうございました。

第三の自由は質的自由?

www.bbc.com

高市政権誕生おめでとうございます。
2026年の解散総選挙が先週末に終わり、週明けの結果を見ると、自民党単独316議席を取得し、議席数だけに焦点を絞れば結党以来、最多!となりました。
法案の再可決が衆議院の2/3で可能ですので、政策立案から決定までを自民党中心に遂行できることとなりました。
ところでイノウエも、10年前、政治活動に関わった時期がありました。某政治塾に入塾し、某政党のサポーターとなり、次期の推薦枠の獲得を目指しました。当時は、世間を賑わした安保関連法案が強行採決された年でしたから、自分も平和憲法を遵守したい気持ちを携え、人間性の育まれる狭義の「自由」を、政治的課題として、提唱しようとしたのです。
それから、10年少し経った今、自民党の歴史的転換期に乗じて当時の、イノウエの政治的課題を備忘録としてブログに残したいと思います。

月並みかもしれませんが、政治の第一の仕事は市民の社会福祉の充実を図ることだと思います。国家の安全保障を含め、国民の暮らしの安心が何よりもまず優先されるものだと思います。一般論としても安全が保持されることは大前提です。ですので第一は社会福祉です。欠乏からの自由や、抑圧からの自由といった、概念の側面からも説明ができます。

また、一定水準以上の自由の問題は、福祉の問題ではなく、むしろ民間のサービス・娯楽産業の課題です。この分野への投資は経済成長において国策としても必須でしょう。周回遅れと指摘されることがあるものの、半導体生産拠点の誘致、AI産業、量子コンピューターへの投資、観光産業、アニメ産業への投資等、種々挙げられます。

ところで、社会福祉や娯楽・サービス、あるいは個人の願望に至るまで、「自由」が望まれており、それらはいずれも「どれだけ欲した物資を手に入れられたか」と言う量の問題に直結するかと思います。

そこで、困難からの解放を意味する自由を第一のもの、欲望を満たす自由を第二ものと整理すると、権利一般の回復請求は前者、利便性向上の願望に関する要求は後者、というように、二つの傾向からほぼ全ての市民的要望の特徴を説明できると思います。

一方で、イノウエの関心は、この文脈で言うところでは第三の自由です。この第三の自由が、第一・第二の自由を、根底で支えると思うからです。仮に自由を量/質に分けるとすれば、量に関わるのは第一、第二。第三の自由は、すでに潜在的に知られていたはずのものを、どのようにしたら新しいものとして取得できるか、という質的な課題に着目します。

手に入らないものまでも欲しくなる自由と質が異なります。無理難題を自らに課せば、「隣の畑が青くみる」ように、発想そのものが不自由の種を植え付けてしまいます。一方の質的自由は、馴染みのある言葉を借りれば、「巡り合わせ」です。

「巡り合わせ」は人によって内容は異なりますし、経験のない人にとっては空虚にさえ見えます。これが「自由」だとか「政治的課題」といえば、押しつけがましいですが、たとえば、人との出会いや職場環境など、自分を取り巻く境遇との良き出会いは、まさしくこの手の自由です。

ある本との出会い、ある思想との遭遇は、しばしば「それを知る前の自分には戻れない」と感じさせる説得力をもちます。長く抱えていた疑問に答えてくれる言葉や、背中をそっと押してくれる知識は、まさにその人にとっての「巡り合わせ」です。どの場合でも、「第三の自由」は、それまでそうではなかった状態の個人的資質を補強する自由です。

なぜそれが政治的課題なのか。

というのは、それが個人の生きがいの話にとどまらず、その人の言葉や言動が派生的に広がり、社会との関係を築き、本人の職業を通じて経済循環を支えるからです。そこで、目下私の関心ごとは、自身に由来する要素を満たすことで他者との関係を築く「第三の自由」を実装していくこととなりました。

絵空事、お花畑、具体性が見えない。色々叩かれる主題かもしれません。ですが、この主題を政治活動として試みた時期がありました。当時は、声が小さくて聞こえないと、ご助言もいただいたのですが、昨年お亡くなりになられた藤川晋之助さんは某政党の松田公太代表との面会をご準備していただくなど、大変お世話になった方でした。感謝の意を直接お伝えすることは叶わずでしたが、当時から時を隔て現在、より論旨も明瞭になってきた次第です。

次のブログには、今現在この「第三の自由」は、どのような形で社会実装されるのか。そのような内容を掲載します。お読みいただいてありがとうございました。

www.tokyo-np.co.jp

 

万博は成功だったのか?

開催目的 | EXPO 2025 大阪・関西万博公式Webサイト


大阪・関西万博が閉幕しました。
万博の規模や、各国の展示内容や、大屋根リングからの眺望等々、実際に会場を訪ねていたらどんなに感銘を受けたのだろうか、と想像します。

盛況に終えた万博の報道を眺めていると、ある番組がシグネチャーパビリオンを担当するとあるプロデューサーさんにスポットを当てておりました。その方は、会場の一角にDJブースを設け、フェスイベントさながら、万博にダンスフロアを誕生させています。飛ぶ鳥をとす勢いの、難関試験に格した実力派のその方が、イベント終了後には万博は「祝祭」だったと総括していたものですから、私は耳をそば立てることになりました。重責を担ったご本人の仰る言葉には重みがあります。

万博は「成功」だったのか、いや、万博は「祝祭」だったのか?目下私の気になるところとなりました。

なぜここにフォーカスするかといえば、祝祭の祝うべき対象は人間の「自由」だと私には思えるからです。「祝祭」とは何だったのか?

結論からすると、それは万博オフィシャル見解ではありません大阪万博の開催意義は、公式サイトの「基本計画」から確認することができます。

 

開催の意義
いのち輝く未来社会へ

(略)新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は世界に大きな影響を与えた。人々は日常の生活の中でいのちに向き合いながら、自らの行動に選択を求められている。

大阪・関西万博は、COVID-19を乗り越えた先の、新たな時代に向けた国家プロジェクトである。この時代に開催される万博として「いのち」という原点に立ち戻り、自らと他者のいのちを意識し、そして自然界の中で生かされる様々ないのちに向き合い、世界が持続する未来を模索する場となる。転換期ともなるこの時代において、万博という場で世界が一つとなることに意義があり、いのち輝く未来社会のありようを共有することは2025年以後の世界の新たな一歩となる。

 

・「いのち」という原点に立ち戻り

・いのち輝く未来社会のありようを共有する

・新たな一歩

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...漠然としておりますね

 

ところで、今回、万博を紹介するメディアや報道によれば、各国のパビリオンがどれも人気を博しております。中でも、万博に訪れた一般来場者数、2500万人超、黒字見込み280億円、といった数値は報道の中心だったようにも見えました。

一方、このブログで着目する「自由」は、下の文脈のような自由です。つまり、他者への配慮やそれ自身に想いを馳せる想像力の自由です

この自由はメガネのようなもので、それがあれば良く見えるのに、無い時にはそれ自身の置き場所までわからなくなるものかと思います。だから、不自由は、不自由な時には気がつかないのかもしれません。想像力の欠如は、想像力があって初めて気がつくものだからです。公式の開催意義や、報道から見る限り、この「自由」についての輪郭は見えず、「いのちの輝きの祭典」が「ビックサイトの国際展示会場」のように見える違和感を自分に残したのでした。

思えば、行政の手厚い福利厚生、民間サービスの利便性の向上、社会全体の自動化のような、幸福感を確保する価値を我々は讃美してきた一方で、讃美されるべき「自由」と、讃美そのものを区別してこなかったのかもしれません。そのような思いが、胸に込み上げるのでした。

現場の高揚感と記録的事柄を多く取り上げておられる一連の報道を見て、抜け落ちていると思えたのはその点です。万博の会場にて、各パビリオンの展示の中に、人間の生活への配慮が、高度な技術によって表現されていたとすれば、報道はここに注目して然るべきだったと思います。「いのち輝く未来社会」を標榜する以上、いのちの自由」に、報道の関心は向かうべきだからです。

一連のジャーナリズムが、上述の切り口を失っているとしたら、ジャーナリズムの専門的視点が見えてきません。「数値」や「記録」なら、一般的な視点でわかる価値だからです。専門家の視点でなければ逸しやすいものの、長い目で見れば、どの人間の生活にも不可欠なものとはまさにこの文脈での「自由」です。ジャーナリズムがこの視点を失えば、万博の報道は、「国際展示」の域を出ず、「祝祭」の側面を選び取ることができません。前者は、経済競争の優位性に根付く技術に着目するにとどまってしまいます。

なお、このブログは、現場で行けなかった惨敗者のぼやきであることをご承知おきください。企画運営、関係者のみなさまお疲れ様でした。

...購入できる記念グッズは、これから探したいと思います。
ありがとう、ミャクミャクくん。

 

https://www.instagram.com/p/DO8e6NTAU5r/ 投稿よりご拝借
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フジテレビ記者会見 2025年1月27日


1月27日、10時間半に及ぶ異例のフジテレビ経営陣の記者会見が放映されました。
鑑賞された方はまさか、スポンサーCMを割愛するとは思わなかったでしょう。さらに、記者の奔放な発言や怒号のようなものが飛び交うとまで想像しなかったと思います。

興奮したガヤから「トカゲの尻尾切りにしか見えない、下っぱではなく日枝をだせ」と煽られ、進行を遮る無双のクレーマーも爆誕しました。開始後5時間半くらいのところ、クレーマーに対して苦言を呈した金髪男子が拍手を浴びるほどでした。(私は見入っておりましたw)

1月29日付朝日新聞「フジテレビかわいそう」がキーワードトレンド入りを報じることとなりました。ある意味で同情票が集まり、フジテレビを賛する方もおられます。

一方で、「それ以上、お答えできません」という発言がこれまでに度々事態を悪化させたように見受けられます。その意味で、責任の所在を明らかにする姿勢が見えなかった、のはフジテレビ経営陣の過失だろうと思います。

・何が正解だったのか?

イノウエは写真業の傍ら、普段、研究会でアーレントや、カント哲学の研究をしております。そこでは今回の状況に酷似する事例や考察に、頻繁に触れることがあります。

人々が論理的であろうとすれば、Aという悪が生じれば、Aの成立のためのBを論難せざるを得ない。続いて関係するCにもDにも責任が及ぶ、Dの原因がEであれば…というようにして、Zを糾弾しないと気が済まない。*1

という一連のセットが、論理的であろうとすると生じます。そして、大きな紛争が起こる場合の歴史の教訓も、形式的な論理の強制の結果、実態への観察がおろそかになる旨が論じられてきました。この視点から見れば、実体よりも形式的な論理に裏付けられたものだったと思います。そうであれば、経営陣の退陣劇の騒ぎの大きさは、必要以上に責任問題が肥大化したものだと目星をつけられます。

70社とも言われるスポンサーが軒並み撤退だなんて、論理による画一化の功罪の典型例ではないでしょうか。殺人や集団リンチが起きたわけではないですが、それに相当するような論調に思えます。

・実体を観察すること

報道が正しければ、客観的数値としては例のトラブルの示談金(損害賠償?)は9000万円です。この金額からすれば年収1000万のサラリーマンなら9年分です。被害者は不治の後遺症を負ったわけではないと、和解の金額から(莫大な金額ながら)推察できます。その上、加害者は反省の意を表明しました。引退表明の前に報じられた謝罪文では、文面に、「これで復帰できる」といった趣旨の記述があり、論難されましたが、その記述が加害者の無反省を示すものとは読解できず、実際になされたことの罪深さは、計り知れない悪だったわけではなさそうです。

仮に企業倫理が問題の本質だったとしても経営陣が実体に着目していたなら、具体的な責任の限定可能性に言及できたと思います。例えば重大な報告を隠蔽した上司がいた場合には、相応の配慮を怠った責任を取ると明言できます*2。

もしくは、被害者を、加害者の不法行為を予期できる場に案内した場合に厳罰に罪を償う、ということなら、経営陣は表明できます*3。

専門家ではない私がこう述べる理由は、責任の程度が大きいとしても限定的であることを明示できるからです。実体(実質)の相応責任に程度に言及できなかったのは元々、形式的な論理に拘泥したからだと推察します。

このような形式論理への傾倒は、例えば、カントの論理学から否定されるのですが、哲学においても古典的(形式的)論理が、事象の個別性が疎かにされたと言います。フジテレビの状況に私には重なります。AならばBという間には、数学とは異なり、さまざまな複雑さが入り込むので、論理によって追求するのでなく、実体の個別的な観察に基づいて、説明する方が有効です。この点が、看過されやすいのは、古代も現代も大差はなさそうです。

このような理解のもとでは、フジテレビの立場としては、「公開できない範囲が多く、その点は、第三者に委ねなければならないが、今できることは内部調査と各部署に対する責任相応分の限定的な処分です。」と、自社の立場を姿勢を示すことが有効な一手だろうと推察できます。何かトラブルが生じ、嫌疑をかけられた際には、世間の関心の有無に関わらず、形式ではなく実質の論理に基づく説明を果たす方がそういう意味で、得策に思われます。

そのようなわけで、フジテレビの異例の記者会見に便乗して、推しの哲学を紹介させていただきました。なにより民主主義の言論空間が、お互いがお互いを不用意に断罪し合う非文化の温床にならないことを願います。

 

*1 『全体主義の起源(1)』参照

*2 安全配慮義務

*3 結果回避義務

 

______追記(2025.7.8)

無作為の責任が問われる代表的な義務

安全配慮義務

② 結果回避義務

③ 危険回避義務

④ 保護観察義務

善管注意義務

 

例えば:会社が従業員に対して有害物質を扱う作業を命じながら、防毒マスクや換気設備などの安全対策を施さなかった場合(①)自分で焚き火をしたことで周囲の枯れ草に延焼の危険を生じさせたにもかかわらず、その後に消火措置や周囲への注意喚起を行わなかった場合(②)自宅の庭に蜂の巣ができていることを知っていながら放置し、近所の子どもが刺された場合(③)親が病気の子どもを看病せず、医療機関にも連れて行かずに放置した場合 (④)マンションの管理会社が、共用部分に設置された消火器の点検や更新を怠った場合 (⑤)

 

『朝まで生テレビ』緊急対策に対して

424日深夜『朝まで生テレビ』より

視聴者からのメッセージ12

 

1. 40代の女性

休業要請で本当に困っている人にとって10万では全然たりないと思う。

収入がないのに家賃や借金、月々の保険などを支払わないとならない。

それが一ヶ月でなく数ヶ月つづく可能性がある。

だから、休業を要請している間、家賃、借金、月々の支払いを中断して、政府が家賃などの取り立てをされている方に、助成金を出せばよかったのではないかと思う

 

2. 40代女性 神奈川 ツイッター

シングルマザーですが、派遣切りで仕事がなくなってしまいました。

子供は三人おります。ギリギリの生活でしたので、貯金も全くなくお金がありません。

一律10万円給付はありがたいのですが、すぐに必要なので本当に早く給付してもらいたいです。

 

3. 40代、理容士 ツイッター

理容・美容業界は、自粛要請が出ていないのですが、理容従事者が注意していても、あれだけ感染させられてしまうのだから、どんなに除菌などをやったところで正直難しいと思います。

自分にも高齢の両親、小さい子供がいます。

要請がなくても休んだ場合、すこしでも補償が出るのでしょうか?

 

4. 主婦 埼玉県

いま一番知りたいのは、

ゴールデンウィークが終わる頃、学校は再開されるのでしょうか?

うちには19歳と21歳の子供がいます。 

私立大学の学費はとても高いです。

一ヶ月以上休みでこの先も休みだと払い損です。

そして、働きに行ける状況でもありません。

政府でなんとかしてもらえないでしょうか。 

それから、埼玉に限定しますと先日、自宅待機者、2名おなくなりになりました。 

コロナに感染したら一体どうなるのか、まさに見当がつきません。

怖くて外出を控えるだけです。

そのうちスーパーも休みにならないか不安です。

未だにマスクは手に入らず、PCR検査もできず。

一体、政府は何をしているのでしょうか?

安倍さんが30万給付から、一律10万に変更したのも、

コロナが落ち着いた先の選挙政策に一つにしか見えません。

韓国では収まっているのに、なぜこんなに日本では遅れているのですか?

 

5. 飲食店経営者 港区 ツイッター

テナント賃料を給付金や協力金だけで賄えるわけがありません。

お願いですが、家主さんが貸している各テナントの賃料を、国に申請をして三ヶ月くらいの間、賃料調整助成金として、家主さんに支払う仕組みを即時作ってもらえば、みなさん安心して休業要請に全面的に協力できます。

 

6.男性 66 台東区

家賃減額のお願いです。前略、独身で年金生活をしています。

年金だけでは生活ができないため、66歳になってもアルバイトをして生活費を出しています。

コロナの件でアルバイト(飲食業)が3月末から5月までカットされて、アパートの家賃支払いが、重荷になっています。収入が年金だけでは、病院費用プラス、薬代プラス、光熱費、水道代、ガス代、通信代など、支払いができません。

なにとぞ、家賃の減額法案をお願いします。

手続きは簡単に。

個人番号を作るチャンスにしてください、国民に特典を。

 

7.学生 23 兵庫県

私は大学生です。実家休みのため特に問題なく、ステイホームしています。

ただ下宿生はアルバイトもなくなって、生活が苦しい友人も多いようです。

10万円では、12ヶ月が限界だろうし心配です。

このことは報道されていることも多いでようですが、わたしは別の問題を感じています。

それは受験のことです。

私には高二の弟がいます。再来年、大学受験です。

素人の私でも、従来のスタイルでの試験の受験ができるとは思いません。

カリキュラムも遅れていますし、教育弱者なら、尚そうだと感じています。

 

8. 自営業 60 大阪府 ファックス

政府は国難と言うなら、国会議員がもっと痛みを負うべきだ。

まず、みずから国会議員が、あらゆる手当を返すべきだ。

国民が主であるなら、国民が給料手当を決める。

財源はまず議員が返せ、もっと有効にお金を使え。

君たち切羽詰まった生活をしてみろ。

 

9. 自営業 女性 52 愛知県

緊急事態宣言で、全国に、学校が休校になるなどして子供たちに影響が出ています。

ただ私の周りの中部地区では、危機感がなく、ゴルフ場がとても混んでいます。

なぜ大人が遊べるのか、しかも現役の医者が平気で参加してプレーをしています。

この現状をどう思われますか?

とにかく、この状況を終わらせるためには全ての遊び場が禁止されるべきだと思う。

早く収束すればまた経済が戻る。

そして頑張れる。

まず終わらせることに一人一人努力することが大事だと思います。

 

10. 未公表

全く政府は後手後手ですね。

台湾を見習ってほしい、医療関係者は死にものぐるいです。

政府に本当の真剣さが感じられません。

どれだけ国民が死ねばいいのですか。

将来の歴史の教科書に残りますよ。

異常事態宣言ならば、もっときちんとやりなさいよ。

くだらないマスクを送るより、医療関係に金を使いなさい。

もっと真剣になってほしい。このままで国が滅びますよ

 

11. 未公表

家族が工事現場で働いています。

緊急事態宣言のでた姫路で働いています。

なぜ現場で働く人たちにも休業ができないのでしょうか。

外で働いている人たちのことは、ぜんぜん公表されていません。

「休業要請」として、ほしいです。

 

12. 男性 65 定年退職

全くスピード感がない。一番の原因は、安倍総理を筆頭に、政府と国民の間に大きなギャップがあり、民意に対して鈍感で検挙さが全くない。

コロナ後の日本が変わり、国民一人一人が、日本国民として誇りを持ち、日本国を愛せる状況をさらに強くするには、新リーダーが必要です。

新聞を読む

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新聞は見ないほうがいい

中国当局との衝突が激化する香港

テロとの関連の疑いから市長の解任を強行するトルコ

シリアのイドリブ県の紛争

クリミア半島を支配するロシア

ウクライナ東部での紛争

カシミール地方で宗教対立を増す印パ

イエメン、アフガニスタン

イランとアメリカ、北朝鮮パレスチナ問題

数えだしたらきりがない

戦いに明け暮れた世界を知ることになる

 

そうは言っても、やはり新聞は読んだほうがいい

少子化問題年金問題が話題の中心かもしれなけれど

まだまだ平和のありがたさを実感できる

日本を知ることになる

 

Vo.1 朝日『日米地位協定』解説シリーズ

  2019年1月31日

 今朝の朝日新聞、「日米地位協定」について解説していました。聞いたことはあっても、一般的には馴染みのないこの協定。未だにわからないことも多いです。
 ですが、2008年頃より情報が公開され始め、一般にも、過去の行政協定のことや、東京上空の制空権のことが知られるようになりました。今まで公にされてこなかった情報に対峙した時に、必要以上に困惑しないで良いように、予め知っておくと良さそうな、関連情報と、すでになされている主張を、このブログでまとめました。

 

 『日米地位協定
 外務省のHPを見れば、軍隊の地位に関する協定だとわかります。

 戦後、日米安保条約が発効した1952年には、米国の日本へ対する保護義務は明記されませんでした。1960年、安保条約改正。第5条に「日本の施政の下における領域」の保護義務が明記され、第6条に「合衆国軍隊の地位は…別個の協定…により規律される」と記されました。
 この別個の協定が日米地位協定と称されます。なお。公表されなかった部分は俗に密約と呼ばれました。

 そもそも、『日米地位協定』を必要とするのは誰でしょうか。
 日米安保条約、第10条に答えがあります。(条約締結10年を経たのち)「どちらかの国が願えば1年の告知期間を経て条約を廃棄できる」旨が記されているからです。継続される日米安保条約の現状を見れば、答えは日米の双方だと言えそうです。

 米国からみれば、在日米軍を稼働させておきたい意向は(冷戦の有無を問わず)妥当に思えます。現在、米露・米中の直接・間接的な敵対関係は世界の各所で絶えず、日本は露・中の南下政策の要衝に位置するだけでなく、米軍はアジアでの拠点を、日本に持つことで中東への足がかりの基盤を持てるからです。

 現政権からみれば、沖縄の米軍基地の建設に傾注する点を見ても、安保条約、継続の意向は明白です。2015年9月に可決した安保関連11法案によって自衛隊は活動範囲を海外に広げましたが、実務的には米軍の補強だとも指摘されます。
 
 もし、この状況が一時的なものであり、主権回復のための一つの過程であると見れば、軍拡の方針も理解できるかもしれません。
 またそれであれば、「米国にNoと言える国にしたい」「沖縄の基地問題を解決したい」と考える人々の主張にも重なります。

 一方、一貫して専守防衛を訴える人々は、自衛隊の海外派兵など軍拡方針に異を唱えます。
 例えばこのような主張です。

 1、自衛隊の海外活動が国内に危険を招くという主張
 自衛隊の海外の活動は、停戦合意のある地域に限られますが、「停戦」の定義は常に曖昧だと言われます。
 この活動の結果、日本の平和外交が頓挫し、テロの対象国家になる恐れを生じる、という主張です。
 あるいは、日本が主権回復のために軍事力を増大しても、自衛隊はいつまでも米軍の従属状態から抜け出せない、という批判もあります。理由には、米国の軍事的一体化の要望を日本は拒否できない、第三国によって日本と周辺諸国の緊張関係は煽られ続ける、などがあります。

    現・自衛隊の海外派兵は本当に国益に叶うのでしょうか。

2、武力の使用範囲を国内に制限する主張

 経済大国であれば、有事の際、侵略する側の国家まで損失を被ります。さらに民間外交によって良好な関係が築かれているとしたら、隣国の日本へ対する軍事的侵略の動機は小さいはずです。であれば、自衛隊専守防衛(≒国内の領土内を超えて他国に武力を用いない)に徹するべき、という主張の説得力が増します。

  この主張に対して、対外的な抑止力が働かないという反対論が生じます。周辺諸国の領海侵害が後を絶たない事実も指摘されます。
 発信元の不明なプロパガンダや、それらの印象操作や扇動によって、緊張状態も解消されません。あるいは、第三国によって進む積極的な土地や水源の買収も進みます。

 一方、賛成論者は、常に具体的事案に適宜対処していく方針です。領海問題にも平和的な解決を図り、沖縄の負担問題に対しても自国の防衛力を高め、米軍の撤退を促すことで、解決に繋げられると主張します。
 山積する問題を前にして、現在、これらの平和的解決が、功を奏すためには、高度な言論外交の手腕が問われることは自明です。

 

3、国際協調から平和を願う主張

 この主張は、国連創設から機能不全だった国連軍や、それに代わる平和維持軍を強固にして、世界警察を機能させる主張です。
 故・アナン事務総長などが指摘した安保理の見直しや、現・常任理事国の拒否権の重みを軽減させる提案も、この国連軍の機能不全の改善に関わります。大国の利権を背景に、実現は遠かったのかもしれません。 

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補足:もし分担額の上位数カ国が、改革議案を中心に結束すれば国連の運営資金の過半を超えます。国連の運営根拠は分担金だけではないとしても、国際協調路線の道筋が途絶えた、という訳では無いかもしれません。

 現実を見ると、常任理事国の拒否権を背景に、化学兵器の無差別使用が許される状況は幾度もありました(1999コソボ紛争、2014年、2017年シリアetc)。
 日本にとっても、自衛隊海外派兵の方針と、米従属からの脱却方針が、トレードオフの関係を生んでいます。矛盾の中で、国内の議論も収束しません。この点を解消する第三の方針が必要なのかもしれません。

 

4、その他の敗戦国と米国の地位協定と比べる主張 

 朝日新聞では、敗戦当時の同盟国だったイタリアの地位協定と、日米の地位協定の比較がされておりました。地政学的に西洋とは事情が異なるので、単に、日米の不平等の度合いが高すぎるから改善した方が良い、という見解は局所的すぎると言えそうです。

 以上、幾つかの主張をまとめました。
 

 ちなみに下記の討論番組でも、論客が意見を交えていて参考になりそうです。ツイッターハッシュタグリンクを貼りました。