
「第三の自由」は社会実装できるのか?
このブログでいうところの第三の自由とは、すでに他の方が論じられている内容に重なると思うので、言葉を増やしてしまうのは申し訳ないのですが、狭義の自由です。他の言い方がまだ見つかりませんので暫定的にそのように表記しています。内容については、前回のブログへご移動くださり、ご確認ください。
早速、冒頭の疑問に応答すると、第三の自由は下記の分野において実装可能だと思います。
①芸術——産み出す側として
②報道——見出す側として
③歴史——記録する側として
④教育——誘う側として
⑤司法——判定する側として
⑥政治——確保する側として
この記述だけで論旨を理解される方は、まずおられないでしょうから文末で論旨を補っています。すでにそれぞれの分野で生じる課題についてこれまでも議論されてきました。強いてイノウエの独自性がどこにあるのかと言えば、ここで言う第三の自由が、課題解決を図るそれぞれの分野の打開策に重なると考える点です。
現在、わたくしことイノウエは人文学系の研究活動と、10代の頃から続けてきた写真活動を並行して行っております。そして、言語化できない漠然とした「自由」のイメージが常日頃から脳裏に纏わりついておりました。ここ最近になり、ようやく言語の輪郭が見えてきたように思います。写真は芸術の分野に関わりますが、その他の分野への架け橋となる「自由」を、フレームの中に収めることができるように思います。対象を根気よく観察することで、自分自身の痕跡を対象の側に見つけます。その痕跡は全く別の分野への架け橋となる、と感じるのです。漠然とでも感じとられる方がいたら幸いです。写真家名義は小沼慶太郎と申します。
そのような思いはさておき、前回のブログから引き続き論じている「第三の自由」が生かされる領域といえば、特に上述の業種ではないでしょうか。この視点に関連して、とりわけ文筆家のW・ベンヤミンのアジェ論と、哲学者H・アーレントの公的領域論には重要な示唆を与えられました。
アーレントの議論は、このブログでいうところの「第三の自由」が、私的領域で展開されるものとは対比的に論じられる公的領域で展開される自由に重なります。
さらにデンマークの哲学者キェルケゴールの哲学、「反復」は知識や認識の儚さと憂いの意義に直面させられます。なお、私個人の解釈を用いれば、「反復」と第三の自由は密接です。それは個人の体験と記憶に関与するもので、自己自身の獲得過程に見出せる自由です。解放の自由や利便性向上などの自由とは異なる「質の自由」です。
「質の自由」は、自己自身の内部に見出す自由です。それを一度身につけると、今までなかったものが見えてくる自由なので、再帰的自由でもあります。(関数の中にそれ自身を含めて定義する再帰関数に構造が似ていますので暫定的にそのように表記しています)
先日、「万博は成功だったのか?」に書きましたが、「自由」はメガネのようなもので、それがなければその居場所さえ見えない、と喩えを用いましたが、それはまさにここで言う「第三の自由」と同義です。パビリオンの展示物のどこかに、人間的なこの「自由」は見られたでしょうから、主要メディアの方々にも、その点に比重をかけて報じて頂けたら、イノウエには万博がより成功らしく見えたと思います。
人間性を質的自由の延長線上に見出す点に、報道の未来があると言うのがイノウエの立場です。
なお、巷で概ね話題となる「自由」は、抑圧的なものからの解放を意味するものであったり、欲しいものを取得できるか否かに関わるものであったりします。前者の自由が回復的自由であれば、後者の自由は拡張的自由と本ブログでは捉えています。いずれも自由の量が重視されるので、このブログでは、これらの自由を「量の自由」と呼称して「質の自由」と区別しております。
今回のブログに載せた「6つの業種」は、第三の「質的自由」の社会的実装の可能性を大きくする代表的な分野だと思います。この狭義の自由は、常に日常の光と影のうち、影の側に埋もれやすいものの、人間的な要素の連鎖をもたらし、さらに経済の潤滑油となり、よく言われるように文化財の保護基準を考察する場合にも効果を発揮するものだと思います。ですので、政治的課題にまで高められると思います。この課題は、複雑な社会を生きる工夫とも、芸術家の表現とも表裏一体です。
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各分野の補足:
①芸術——産み出す側として
芸術には、表現者によってさまざまな思いが作品の中に込められますが感覚的、商業的、娯楽的なものだけでなく、その人の天然自然の人間的成分の獲得過程を表現する詩的なものがあります。さまざまな芸術表現があるので概念を用いた区別はできないものの、成分表示ならある程度可能です。第三の自由=質的自由の表現となって現れる芸術は、本人が詩を意識していなくても、詩的です。非/言語の詩は分野の垣根を越えて鑑賞者自身の記憶に重なると思います。例えば「東(ひむがし)の野にかげろひのたつ見えて かえりみすればつき西渡る」という万葉集の一首(一部筆者訳)には、ただただ観察する本人を、東と西にはさまれた一つのシーンの中に投影します。ここには単なる一人の視点の風景描写を詠んでいるだけなのですが、人間の視点に対する絶大な信頼が歌に表れており、この歌を名歌にさせていると思います。
②報道——見出す側として
報道には、客観的数値や記録的事柄を素材とする場合もありますが、質的な自由に関与する場合には、その報道の視点は、一人一人の人間に着目されるものです。サンドイッチマンさんの『病院ラジオ』のようなバラエティ番組がありますが、ここまでの文脈を用いると、患者さんの葛藤やユーモアや人間的活動を題材とするこの番組は、患者さんの内面の人間性についての、「報道番組」という見方ができます。あるいは株式会社ゲンロンの東浩紀さんの活動は、たとえば、選挙特番の配信で、一般の方をスタジオに招いて議論を深めたりなど、自身の哲学である『訂正可能性の哲学』に根付いておりますし、その一連の活動は、第三の自由の積極的関与が見て取れます。報道機関として着目すべき何者でもない一般の人の心情を汲み上げているからです。
③歴史——記録する側として
歴史には、散々語られてきたように、勝者の陰に人間の尊厳が埋没されてきました。W・ベンヤミンの「歴史の屑拾い」はその埋もれた領域に着目するのですが、歴史だけでなく、芸術にも報道にも、人間性の痕跡に着目することに関して、類比的な展開ができるものではないでしょうか。この文脈でいうところの質的自由に光を当てようとする歴史の叙述のあり方が、ベンヤミンの主要な論旨に重なる、という仮説が自分にはあります。
④教育——誘う側として
教育には、評価と指導が必要と言われます。第三の自由に関する眼差しが教育に携わるとすれば、量的自由と質的自由には自覚的になることができます。概ね生活の中で一体となっている自由に含まれる量と質の性格の違いを明瞭することで、人間的素養に意識を向かわせる面白さに着目できます。
⑤司法——判定する側として
司法には、刑法・民法とありますが、私法・公法の区別もあります。自然法に則り、既存の基準に照らし合わせずともあるべき責任の所在を明確にできる場合は私法に成熟している場合です。覇権国家の首長が自らを法とみなす場合は往々にして過大評価のそれにあたります。例外状態に直面し、法の不全に晒されても、それまで存在しなかった新たな法的基準を設け、明文化し、社会的に共有する必要があります。この共有プロセスが、公法の役割です。質的自由は、裁判官と当事者の中で実態に照らし合わせる態度や観察に基づく、特に量的判定や民法的審理に働く自由でもあります。
⑥政治——確保する側として
政治には、政治家の役割として、自由の確保される公的領域の構想をした哲学者がハンナ・アーレントです。すでに著作内で丹念に語られる政治的課題ですが、言論空間に確保されるアーレント的な自由は、この文脈でいう質的自由と概ね同義のもののようです。
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他者のこしらえた概念を前置きなく軽々に用いているので、言ってることもやってることも「よくわからん」と思われた方は、間違ってはおられないと思います。
また今回の内容を論文として提出するとすれざ、さらに先行研究を踏まえなければなりませんし、何より分野を横断することで各分野でのすでに構築された客観的参照元となる定説を、あわよくば修正する方向に形式を整えなければなりません。アカデミックな論文とは異なる、役割がこのブログにもありますから、拙い表現ながらこの『おーい新聞記事ブログ』にも書き残したいと思います。
最後まで、お付き合いくださりありがとうございました。



